はじめに
ハシモトさんの絵には、光の温度があります。やわらかなオレンジや黄、そこに淡い青やグレーが重なると、物や景色というより"時間"が描かれているように感じます。水彩の偶然性が柔らかさを生み、配置の確かさが芯をつくる。そのバランスが、見る人を静かに引き寄せます。暮らしの中に飾ると、空間の空気がすっと整う。そんなアートです。
もう一度、手描きへ戻るまで
ハシモトさんは、もともと絵を描くのが好きで、高校・短大と美術系の学校で学びました。描くことが特別な出来事というより、当たり前に自分の傍らにあった時間だったのだと思います。
就職後はしばらくWEB制作の仕事やイラストの仕事に携わります。作ることを続けながらも、仕事の速度や求められる形のなかで、手描きの絵が持つ緩さや揺れが、どこか遠いものに感じられる瞬間もあったのかもしれません。
転機は2020年頃。「もう一度手描きの絵を描きたい」「絵を描いて生きていきたい」。その思いが繰り返し立ち上がるようになり、一念発起して作家活動に専念します。
ただ、専念することを決めたからといって、すぐに自分の絵が手に入るわけではありません。ハシモトさんが最初に取り組んだのは、上手く描こうとすることを手放すことでした。上手に見せるより、手が自然に動くこと。整えすぎず、無難にまとめず、いまの自分が出てくるゆとりを残すこと。そこから、絵の空気が少しずつ変わっていったといいます。
石がつくる緊張と、ぎりぎりの均衡
さまざまなモチーフを描いていくなかで、ハシモトさんはロックバランシングが持つ造形に強い衝撃を受けました。おだやかな空気のなかに、緊張感がある。崩れそうで崩れない。そのぎりぎりの均衡が、見る人の呼吸まで変えてしまうような不思議な力を持っています。
石の形には決まりがなく、一つとして同じものがありません。だからこそ形を自由に表現でき、色も自分が好きな色で描ける。いまの自分にとって、とても自然でぴったりなモチーフだと感じているそうです。
ロックバランシングは、石を重ねて均衡させる表現として知られていますが、ハシモトさんが惹かれているのは、単なる技巧よりも、そのたたずまいが生む張りつめた静けさなのだと思います。言葉が少ないぶん、見る側が勝手に意味を足すことができる。その余白が、石にも絵にも共通しています。

にじみが連れてくる、予想外の表情
作品を通じて楽しんでほしいのは、水彩が持つ独特な滲みや微妙な色の変化です。色と色がぶつかって生まれる、思いもよらない表情。意図だけでは到達できない領域が、水の動きのなかにふっと現れるときがあります。
偶然にできた滲みの跡は、近づいて見ると何かの形に見えたり、見るたびに新しい発見があったりします。一度見て終わりではなく、何度も目が戻ってくる。説明の代わりに、発見が残る。ハシモトさんが描きたいのは、そんな「見返すほど増えていく絵」なのだと思います。
透明水彩とカラーインク、そして「説明しすぎない」
ハシモトさんは、絵の具の滲みや、乾いた後に偶然できた色の輪郭を表現したくて、主に透明水彩とカラーインクで制作しています。たっぷり水を含ませて塗っていくため、乾くまでかなり時間がかかります。けれど、その時間さえも"結果を待つ"というより、画面の呼吸を待つような感覚で楽しみながら制作しているそうです。
色や構図はできるだけシンプルにすることを心がけ、説明的な絵にならないようにしています。見ている人に余白を残し、「これは何を表しているんだろう」と考えてもらえるような表現を大切にしています。
影響を受けた作家として挙げるのは、絵本作家の五味太郎さんです。カラーインクを使おうと思ったのも、五味さんのビビッドな配色に心を打たれたことがきっかけでした。強い色は、ともすると印象が前に出すぎてしまうこともあります。けれどハシモトさんの画面では、その強さが尖らずに残ります。滲みが境界をやわらげ、色同士の距離感を整えているのかもしれません。
「これでいい」と言えるところまで
絵を描くときに大切にしているのは、上手く描こうと思わないことです。そして「これでいいんだよ」と自分を許しながら描くこと。
よく見られたい、上手に描かなければ。そういう気持ちは、誰のなかにも自然に生まれます。ただ、その気持ちが強くなりすぎると、守りに入ってしまい、肩に力が入ってしまう。ハシモトさんはその感覚をよく知っていて、だからこそ力を抜く方向へ自分を戻していきます。
「上手く描く」より先に、「いまの自分が出てくる」こと。小さなズレや偶然を受け入れること。そうして残ったもののほうが、あとから振り返ったときに、いちばん嘘がない。ハシモトさんの言葉からは、そんな制作の倫理のようなものが伝わってきます。
色から始まる着想、季節が変えるパレット
制作のきっかけは、まず色から思いつくことが多いそうです。街中にあるものや花、風景などを何気なく眺めているとき、「あ、この色を絵に使いたい」と思う瞬間がある。その小さな引っかかりが、作品の入口になります。形からではなく、色から始まる。だから、絵の中に最初から空気のようなものが入りやすいのかもしれません。
季節から受ける影響も大きく、春は明るく軽やかな色、夏は彩度の高い色、秋は落ち着いた色、冬は暖かみのある色を自然と選んでいます。モチーフが同じでも、季節が変わると、画面の温度が変わる。その変化が、ハシモトさんの絵に"時間"を感じさせる理由のひとつになっています。
いま描いているもの、これから描きたいもの
現在はロックバランシング中心に制作していますが、花や植物、風景を描くことにも挑戦しています。いまは「描く枚数がまだ足りない」と感じているので、とにかく数を描くことに専念している段階だそうです。
数を重ねることで、線や色の選択が速くなるというだけではありません。同じように見える一枚でも、滲み方が違う。乾き方が違う。自分の気分が違う。積み重ねのなかで、偶然と必然の境目が少しずつ変わっていきます。
今後の目標としては、より大きなサイズの作品にもチャレンジしていきたいとのこと。サイズが大きくなると、抜けは"余り"ではなく、画面の主役になっていきます。ハシモトさんが大きな画面でどんな落ち着きを置くのか、それはきっと、いまの延長線上にありながら新しい景色になるはずです。

ハシモトさんが大好きな珈琲。コースターは岡理恵子さん(点と線模様製作所)の作品。
小さな習慣と、ご家族の話
日常で欠かせないのが、毎日おいしい珈琲を飲むことだそうです。作業の合間の一杯で気持ちがすっと落ち着き、もう少し頑張ろうと思える。制作のテンションを上げるというより、呼吸を戻すような時間として、珈琲がそこにあるのだと思います。
そしてもうひとつ、印象的だったのがご家族のお話です。旦那様もアート系のお仕事で、お子さんも美術系の学校へ。「家族で展覧会なんかできたらいいな」と仰っていたときの笑顔がとても素敵でした。制作は孤独な時間を含みますが、同じ方向を向いてくれる人が近くにいるというのは、思っている以上に大きな支えになるのかもしれません。絵の穏やかさの奥に、そういう温度がそっと隠れているようにも感じます。
作品を迎える方へ
誰かの日常にそっと彩りを添えるような、見ている人の心がほっと和むような存在であれば嬉しい。ハシモトさんはそう語ります。
飾ると、空間が華やぐというより、澄んでいく。見るたびに、色の見え方が少し変わる。もしかすると、変わっているのは、絵よりも見る側の心なのかもしれません。そんなふうに、暮らしの中で静かに効いてくるアートなんです。