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当店に作品をご提供くださっている作家の皆さまをご紹介するページです。画家、イラストレーター、テキスタイルデザイナーなど、従来のカテゴリーにとらわれることなく、アートとデザインの境界を自由に行き来する、国内外の多彩な作家陣が参加しています。

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  • 文字が「見るもの」に変わる|タイポグラフィアート

    文字が「見るもの」に変わる|タイポグラフィアート

    文字には、意味がある。けれど、それだけじゃない。 形がある。重さがある。間がある。 その全部を使って、空気や感情まで伝えようとする表現が、タイポグラフィアートです。 「LOVE」という4文字を思い浮かべてください。 読めば、意味はわかります。でも、文字が細ければ、どこか頼りなくてせつない。太く大きく置かれれば、叫んでいるように見える。余白をたっぷりとれば、静かに、遠くから語りかけてくる。 言葉は同じなのに、見た目が変わると、温度が変わる。 タイポグラフィアートの面白さは、そこにあります。   「タイポグラフィ」と何が違うの? タイポグラフィは本来、文字を選び、組み、読みやすく美しく届けるための「設計」の考え方です。 その延長線上に、情報を伝えることより、文字そのものを主役にして成立させる領域があります。そこがタイポグラフィアートの入口です。はっきりした境界線があるというより、デザインからアートまで続く、なだらかなグラデーションとして捉えるのが自然です。 文字だけで、なぜ"絵"になるのか 理由はシンプルです。文字はもともと、形だから。 AもBも、よく見れば曲線と直線の組み合わせです。そこに配置の工夫が加わると、画面は急に表情を持ちます。 文字が密集すると、熱量が出る。 余白が広いと、静けさが生まれる。 斜めに流れると、スピード感が出る。 角ばった書体は緊張を運び、丸い書体は親しみを連れてくる。 話し方が印象を左右するように、タイポグラフィは言葉の「語り口」を、見た目で作っています。 文字が、ほかの素材と出会うとき タイポグラフィアートは、文字だけで画面を組む表現にとどまりません。 紙片のコラージュ、写真の断片、手描きのドローイング、刷りの質感——そうしたものと交わることで、言葉は「読むもの」から「触れられそうなもの」へと変わっていきます。文字が表現の核にある限り、それはタイポグラフィアートです。 見え方が変わる、3つの視点 書体は「声」 同じ言葉でも、書体が違うと人格が変わります。落ち着いた声、力強い声、距離の近い声。書体を「声」として感じ取ることが、最初の入口です。 余白は「間」 空白は、空きではありません。言葉が響くための通り道です。余白が広いほど、言葉はゆっくり、深く届きます。 リズムは「感情のテンポ」 大きい文字は強調、小さい文字はささやき。整列は安定、崩しは揺らぎ。文字の並びのテンポが、そのまま読む人の感情のテンポになります。 身近なところにある...

    文字が「見るもの」に変わる|タイポグラフィアート

    文字には、意味がある。けれど、それだけじゃない。 形がある。重さがある。間がある。 その全部を使って、空気や感情まで伝えようとする表現が、タイポグラフィアートです。 「LOVE」という4文字を思い浮かべてください。 読めば、意味はわかります。でも、文字が細ければ、どこか頼りなくてせつない。太く大きく置かれれば、叫んでいるように見える。余白をたっぷりとれば、静かに、遠くから語りかけてくる。 言葉は同じなのに、見た目が変わると、温度が変わる。 タイポグラフィアートの面白さは、そこにあります。   「タイポグラフィ」と何が違うの? タイポグラフィは本来、文字を選び、組み、読みやすく美しく届けるための「設計」の考え方です。 その延長線上に、情報を伝えることより、文字そのものを主役にして成立させる領域があります。そこがタイポグラフィアートの入口です。はっきりした境界線があるというより、デザインからアートまで続く、なだらかなグラデーションとして捉えるのが自然です。 文字だけで、なぜ"絵"になるのか 理由はシンプルです。文字はもともと、形だから。 AもBも、よく見れば曲線と直線の組み合わせです。そこに配置の工夫が加わると、画面は急に表情を持ちます。 文字が密集すると、熱量が出る。 余白が広いと、静けさが生まれる。 斜めに流れると、スピード感が出る。 角ばった書体は緊張を運び、丸い書体は親しみを連れてくる。 話し方が印象を左右するように、タイポグラフィは言葉の「語り口」を、見た目で作っています。 文字が、ほかの素材と出会うとき タイポグラフィアートは、文字だけで画面を組む表現にとどまりません。 紙片のコラージュ、写真の断片、手描きのドローイング、刷りの質感——そうしたものと交わることで、言葉は「読むもの」から「触れられそうなもの」へと変わっていきます。文字が表現の核にある限り、それはタイポグラフィアートです。 見え方が変わる、3つの視点 書体は「声」 同じ言葉でも、書体が違うと人格が変わります。落ち着いた声、力強い声、距離の近い声。書体を「声」として感じ取ることが、最初の入口です。 余白は「間」 空白は、空きではありません。言葉が響くための通り道です。余白が広いほど、言葉はゆっくり、深く届きます。 リズムは「感情のテンポ」 大きい文字は強調、小さい文字はささやき。整列は安定、崩しは揺らぎ。文字の並びのテンポが、そのまま読む人の感情のテンポになります。 身近なところにある...

  • 井上陽子さんの新作コラージュ&ドローイング作品をご紹介します。

    井上陽子さんの新作コラージュ&ドローイング作品をご紹介します。

    画像はまるでアンティークカフェのような井上さんのアトリエ   フランスの格言をモチーフに、言葉・色・素材が幾重にも重なり合う、井上陽子さんによるコラージュ&ドローイングの融合作品3点をご紹介します。タイポグラフィアートとしての表情も持ちながら、「好みと色彩について議論すべからず」「禍を転じて福となす」「時代が変われば風習も変わる」——普遍的なフランスの格言たちが、色と形を纏い、新たな表情で語りかけてきます。ぜひ間近でご覧ください。   「2022-02」 「好みと色彩について議論すべからず」「禍を転じて福となす」——二つのフランスの格言を軸に構成された、井上陽子さんによるコラージュ&ドローイングの融合作品です。ティールブルーとベージュの大胆な色面構成に、黒い縦のラインが鋭いアクセントを加え、言葉と素材、色と余白が幾重にも重なり合います。 「2024-02」 「禍を転じて福となす」「時代が変われば風習も変わる」——フランスの格言が層を成すように刻み込まれた、井上陽子さんによるコラージュ&ドローイングの融合作品です。グレーを基調とした落ち着いた色調の中に、大きな文字の造形と「temps,(時)」の言葉が浮かび上がり、一点だけ置かれた鮮やかなブルーの円が静かな存在感を放ちます。時間と変化をテーマにした、奥行きのある一枚です。 「2025-14」 古書を思わせるページを土台に、鮮烈な赤と深みのある紺の色面が力強く対峙する、井上陽子さんによるコラージュ&ドローイングの融合作品です。「ADELINE」の文字や判読しきれない手書きの走り書き、右下の金色のテクスチャが重なり合い、時間の堆積を感じさせる独特の世界観を生み出しています。余白と密度の緊張感あるバランスが印象的な一枚です。 井上陽子 / Yoko Inoue京都造形芸術大学、洋画コース卒業。世界中を旅して目にした風景や日本での日常の景色を、自身というフィルターを通し、ドローイングやコラージュ作品として発表している。通常の創作活動以外にも、書籍表紙やCDジャケットへの作品提供、著書の出版など、さまざまな境界を越えて活動中。 井上さんの作品はこちらから 井上さんの深堀コラムはこちらから  

    井上陽子さんの新作コラージュ&ドローイング作品をご紹介します。

    画像はまるでアンティークカフェのような井上さんのアトリエ   フランスの格言をモチーフに、言葉・色・素材が幾重にも重なり合う、井上陽子さんによるコラージュ&ドローイングの融合作品3点をご紹介します。タイポグラフィアートとしての表情も持ちながら、「好みと色彩について議論すべからず」「禍を転じて福となす」「時代が変われば風習も変わる」——普遍的なフランスの格言たちが、色と形を纏い、新たな表情で語りかけてきます。ぜひ間近でご覧ください。   「2022-02」 「好みと色彩について議論すべからず」「禍を転じて福となす」——二つのフランスの格言を軸に構成された、井上陽子さんによるコラージュ&ドローイングの融合作品です。ティールブルーとベージュの大胆な色面構成に、黒い縦のラインが鋭いアクセントを加え、言葉と素材、色と余白が幾重にも重なり合います。 「2024-02」 「禍を転じて福となす」「時代が変われば風習も変わる」——フランスの格言が層を成すように刻み込まれた、井上陽子さんによるコラージュ&ドローイングの融合作品です。グレーを基調とした落ち着いた色調の中に、大きな文字の造形と「temps,(時)」の言葉が浮かび上がり、一点だけ置かれた鮮やかなブルーの円が静かな存在感を放ちます。時間と変化をテーマにした、奥行きのある一枚です。 「2025-14」 古書を思わせるページを土台に、鮮烈な赤と深みのある紺の色面が力強く対峙する、井上陽子さんによるコラージュ&ドローイングの融合作品です。「ADELINE」の文字や判読しきれない手書きの走り書き、右下の金色のテクスチャが重なり合い、時間の堆積を感じさせる独特の世界観を生み出しています。余白と密度の緊張感あるバランスが印象的な一枚です。 井上陽子 / Yoko Inoue京都造形芸術大学、洋画コース卒業。世界中を旅して目にした風景や日本での日常の景色を、自身というフィルターを通し、ドローイングやコラージュ作品として発表している。通常の創作活動以外にも、書籍表紙やCDジャケットへの作品提供、著書の出版など、さまざまな境界を越えて活動中。 井上さんの作品はこちらから 井上さんの深堀コラムはこちらから  

  • 作家の深堀りコラム|時間の気配を飾る、ハシモトヒロコの水彩画

    作家の深堀りコラム|時間の気配を飾る、ハシモトヒロコの水彩画

    はじめに ハシモトさんの絵には、光の温度があります。やわらかなオレンジや黄、そこに淡い青やグレーが重なると、物や景色というより"時間"が描かれているように感じます。水彩の偶然性が柔らかさを生み、配置の確かさが芯をつくる。そのバランスが、見る人を静かに引き寄せます。暮らしの中に飾ると、空間の空気がすっと整う。そんなアートです。   もう一度、手描きへ戻るまで ハシモトさんは、もともと絵を描くのが好きで、高校・短大と美術系の学校で学びました。描くことが特別な出来事というより、当たり前に自分の傍らにあった時間だったのだと思います。 就職後はしばらくWEB制作の仕事やイラストの仕事に携わります。作ることを続けながらも、仕事の速度や求められる形のなかで、手描きの絵が持つ緩さや揺れが、どこか遠いものに感じられる瞬間もあったのかもしれません。 転機は2020年頃。「もう一度手描きの絵を描きたい」「絵を描いて生きていきたい」。その思いが繰り返し立ち上がるようになり、一念発起して作家活動に専念します。 ただ、専念することを決めたからといって、すぐに自分の絵が手に入るわけではありません。ハシモトさんが最初に取り組んだのは、上手く描こうとすることを手放すことでした。上手に見せるより、手が自然に動くこと。整えすぎず、無難にまとめず、いまの自分が出てくるゆとりを残すこと。そこから、絵の空気が少しずつ変わっていったといいます。   石がつくる緊張と、ぎりぎりの均衡 さまざまなモチーフを描いていくなかで、ハシモトさんはロックバランシングが持つ造形に強い衝撃を受けました。おだやかな空気のなかに、緊張感がある。崩れそうで崩れない。そのぎりぎりの均衡が、見る人の呼吸まで変えてしまうような不思議な力を持っています。 石の形には決まりがなく、一つとして同じものがありません。だからこそ形を自由に表現でき、色も自分が好きな色で描ける。いまの自分にとって、とても自然でぴったりなモチーフだと感じているそうです。 ロックバランシングは、石を重ねて均衡させる表現として知られていますが、ハシモトさんが惹かれているのは、単なる技巧よりも、そのたたずまいが生む張りつめた静けさなのだと思います。言葉が少ないぶん、見る側が勝手に意味を足すことができる。その余白が、石にも絵にも共通しています。     にじみが連れてくる、予想外の表情 作品を通じて楽しんでほしいのは、水彩が持つ独特な滲みや微妙な色の変化です。色と色がぶつかって生まれる、思いもよらない表情。意図だけでは到達できない領域が、水の動きのなかにふっと現れるときがあります。 偶然にできた滲みの跡は、近づいて見ると何かの形に見えたり、見るたびに新しい発見があったりします。一度見て終わりではなく、何度も目が戻ってくる。説明の代わりに、発見が残る。ハシモトさんが描きたいのは、そんな「見返すほど増えていく絵」なのだと思います。   透明水彩とカラーインク、そして「説明しすぎない」 ハシモトさんは、絵の具の滲みや、乾いた後に偶然できた色の輪郭を表現したくて、主に透明水彩とカラーインクで制作しています。たっぷり水を含ませて塗っていくため、乾くまでかなり時間がかかります。けれど、その時間さえも"結果を待つ"というより、画面の呼吸を待つような感覚で楽しみながら制作しているそうです。 色や構図はできるだけシンプルにすることを心がけ、説明的な絵にならないようにしています。見ている人に余白を残し、「これは何を表しているんだろう」と考えてもらえるような表現を大切にしています。 影響を受けた作家として挙げるのは、絵本作家の五味太郎さんです。カラーインクを使おうと思ったのも、五味さんのビビッドな配色に心を打たれたことがきっかけでした。強い色は、ともすると印象が前に出すぎてしまうこともあります。けれどハシモトさんの画面では、その強さが尖らずに残ります。滲みが境界をやわらげ、色同士の距離感を整えているのかもしれません。   「これでいい」と言えるところまで 絵を描くときに大切にしているのは、上手く描こうと思わないことです。そして「これでいいんだよ」と自分を許しながら描くこと。 よく見られたい、上手に描かなければ。そういう気持ちは、誰のなかにも自然に生まれます。ただ、その気持ちが強くなりすぎると、守りに入ってしまい、肩に力が入ってしまう。ハシモトさんはその感覚をよく知っていて、だからこそ力を抜く方向へ自分を戻していきます。 「上手く描く」より先に、「いまの自分が出てくる」こと。小さなズレや偶然を受け入れること。そうして残ったもののほうが、あとから振り返ったときに、いちばん嘘がない。ハシモトさんの言葉からは、そんな制作の倫理のようなものが伝わってきます。   色から始まる着想、季節が変えるパレット...

    作家の深堀りコラム|時間の気配を飾る、ハシモトヒロコの水彩画

    はじめに ハシモトさんの絵には、光の温度があります。やわらかなオレンジや黄、そこに淡い青やグレーが重なると、物や景色というより"時間"が描かれているように感じます。水彩の偶然性が柔らかさを生み、配置の確かさが芯をつくる。そのバランスが、見る人を静かに引き寄せます。暮らしの中に飾ると、空間の空気がすっと整う。そんなアートです。   もう一度、手描きへ戻るまで ハシモトさんは、もともと絵を描くのが好きで、高校・短大と美術系の学校で学びました。描くことが特別な出来事というより、当たり前に自分の傍らにあった時間だったのだと思います。 就職後はしばらくWEB制作の仕事やイラストの仕事に携わります。作ることを続けながらも、仕事の速度や求められる形のなかで、手描きの絵が持つ緩さや揺れが、どこか遠いものに感じられる瞬間もあったのかもしれません。 転機は2020年頃。「もう一度手描きの絵を描きたい」「絵を描いて生きていきたい」。その思いが繰り返し立ち上がるようになり、一念発起して作家活動に専念します。 ただ、専念することを決めたからといって、すぐに自分の絵が手に入るわけではありません。ハシモトさんが最初に取り組んだのは、上手く描こうとすることを手放すことでした。上手に見せるより、手が自然に動くこと。整えすぎず、無難にまとめず、いまの自分が出てくるゆとりを残すこと。そこから、絵の空気が少しずつ変わっていったといいます。   石がつくる緊張と、ぎりぎりの均衡 さまざまなモチーフを描いていくなかで、ハシモトさんはロックバランシングが持つ造形に強い衝撃を受けました。おだやかな空気のなかに、緊張感がある。崩れそうで崩れない。そのぎりぎりの均衡が、見る人の呼吸まで変えてしまうような不思議な力を持っています。 石の形には決まりがなく、一つとして同じものがありません。だからこそ形を自由に表現でき、色も自分が好きな色で描ける。いまの自分にとって、とても自然でぴったりなモチーフだと感じているそうです。 ロックバランシングは、石を重ねて均衡させる表現として知られていますが、ハシモトさんが惹かれているのは、単なる技巧よりも、そのたたずまいが生む張りつめた静けさなのだと思います。言葉が少ないぶん、見る側が勝手に意味を足すことができる。その余白が、石にも絵にも共通しています。     にじみが連れてくる、予想外の表情 作品を通じて楽しんでほしいのは、水彩が持つ独特な滲みや微妙な色の変化です。色と色がぶつかって生まれる、思いもよらない表情。意図だけでは到達できない領域が、水の動きのなかにふっと現れるときがあります。 偶然にできた滲みの跡は、近づいて見ると何かの形に見えたり、見るたびに新しい発見があったりします。一度見て終わりではなく、何度も目が戻ってくる。説明の代わりに、発見が残る。ハシモトさんが描きたいのは、そんな「見返すほど増えていく絵」なのだと思います。   透明水彩とカラーインク、そして「説明しすぎない」 ハシモトさんは、絵の具の滲みや、乾いた後に偶然できた色の輪郭を表現したくて、主に透明水彩とカラーインクで制作しています。たっぷり水を含ませて塗っていくため、乾くまでかなり時間がかかります。けれど、その時間さえも"結果を待つ"というより、画面の呼吸を待つような感覚で楽しみながら制作しているそうです。 色や構図はできるだけシンプルにすることを心がけ、説明的な絵にならないようにしています。見ている人に余白を残し、「これは何を表しているんだろう」と考えてもらえるような表現を大切にしています。 影響を受けた作家として挙げるのは、絵本作家の五味太郎さんです。カラーインクを使おうと思ったのも、五味さんのビビッドな配色に心を打たれたことがきっかけでした。強い色は、ともすると印象が前に出すぎてしまうこともあります。けれどハシモトさんの画面では、その強さが尖らずに残ります。滲みが境界をやわらげ、色同士の距離感を整えているのかもしれません。   「これでいい」と言えるところまで 絵を描くときに大切にしているのは、上手く描こうと思わないことです。そして「これでいいんだよ」と自分を許しながら描くこと。 よく見られたい、上手に描かなければ。そういう気持ちは、誰のなかにも自然に生まれます。ただ、その気持ちが強くなりすぎると、守りに入ってしまい、肩に力が入ってしまう。ハシモトさんはその感覚をよく知っていて、だからこそ力を抜く方向へ自分を戻していきます。 「上手く描く」より先に、「いまの自分が出てくる」こと。小さなズレや偶然を受け入れること。そうして残ったもののほうが、あとから振り返ったときに、いちばん嘘がない。ハシモトさんの言葉からは、そんな制作の倫理のようなものが伝わってきます。   色から始まる着想、季節が変えるパレット...

  • 侘び寂び(わびさび)のこと

    侘び寂び(わびさび)のこと

    画像は京都の詩仙堂   社名の話から始めさせてください。弊社の創業時の社名は WASAVY(ワサビー)でした。由来はもちろん「詫び寂び」です。ところが電話をするたびに、当時から勢いのあったサザビーさんと間違えられることが多くて、「ワとサなのに、何で?」と思いながらもややこしいので社名変更にいたりました。 でも、あの名前、気に入ってたんですよね。そのくらい、「詫び寂び」という言葉はわたしにとって身近なものです。アートポスターを扱うようになってからも、ずっとどこかで意識している感覚です。今回はそのことを少し書いてみようと思います。   「侘び寂び(わびさび)」って、結局なんだろう うまく言葉にしにくい概念ですが、新品の器を想像するとわかりやすいかもしれません。つるんとして綺麗な新品も良いのですが、毎日使って少し艶が出てきたり、釉薬(陶磁器の表面をコーティングするガラス質の薄い膜)にムラが見えてきたり、細かな傷が増えてきたりすると、「あ、いい顔になってきたな」と思うことがあります。あれに近いです。 「侘び(wabi)」は、派手に足していくより静かに削っていく、豪華さより控えめ、という方向の美意識です。「寂び(sabi)」は、金属の錆びのように時間が表面に残していくもの——使い込まれて出てくる古艶や落ち着いた色を「いい」と感じる見方です。この二つが合わさって「侘び寂び」になります。 英語圏の辞書でも wabi-sabi は「簡素」「不完全」「自然」「控えめ」といった方向で説明されていて、いわば"ものの見方"として理解されています。スタンフォード大学が公開しているオンライン哲学事典(SEP)では、wabi を「簡素で峻厳な美(Simple, Austere Beauty)」、sabi を「素朴な古艶、時がつくる風合い(Rustic Patina)」と整理しています。 少し補足すると、「侘び」「寂び」には意味の層が三つあります。ひとつは単語としての意味(わびしい・さびしい、という気持ちや状態)。ひとつは美意識としての意味(控えめで簡素、古びた味わいを"いい"と感じる見方)。そしてもうひとつは、暮らしや表現の型(茶室の設え、器の選び方、花の生け方など、日常の中でその美意識が形として現れたもの)。SEPが語っているのは主に二つ目の、美意識としての層です。   日本発祥のもの? 海外ではどう見られてる? 「わび」は『万葉集』に登場しますし、平安期の『古今和歌集』、『枕草子』にも顔を出します。「さび」も「さびしさ」として和歌に現れていて、まずは"寂しさ"の語感で使われていた言葉です。つまり「侘び寂び」は、日本語の中で長い時間をかけて育まれてきた、日本発祥の美意識と言えます。 一方で "wabi-sabi" はそのまま英語でも通じる言葉になっていて、Cambridge や OED といった英語圏の辞書の見出し語にも載っています。海外では特にインテリアやデザインの世界で「完璧主義から少し降りる」「経年変化を隠さない」という意味合いで語られることが多いようです。 内閣府の外国人意識調査では、日本の魅力として「日本独自の精神性(禅・武士道・わびさび等)」が挙げられていることも確認できます。訪日外客数が増えている流れも重なって、日本文化への関心の母数自体が広がっているのは確かそうです。  ...

    侘び寂び(わびさび)のこと

    画像は京都の詩仙堂   社名の話から始めさせてください。弊社の創業時の社名は WASAVY(ワサビー)でした。由来はもちろん「詫び寂び」です。ところが電話をするたびに、当時から勢いのあったサザビーさんと間違えられることが多くて、「ワとサなのに、何で?」と思いながらもややこしいので社名変更にいたりました。 でも、あの名前、気に入ってたんですよね。そのくらい、「詫び寂び」という言葉はわたしにとって身近なものです。アートポスターを扱うようになってからも、ずっとどこかで意識している感覚です。今回はそのことを少し書いてみようと思います。   「侘び寂び(わびさび)」って、結局なんだろう うまく言葉にしにくい概念ですが、新品の器を想像するとわかりやすいかもしれません。つるんとして綺麗な新品も良いのですが、毎日使って少し艶が出てきたり、釉薬(陶磁器の表面をコーティングするガラス質の薄い膜)にムラが見えてきたり、細かな傷が増えてきたりすると、「あ、いい顔になってきたな」と思うことがあります。あれに近いです。 「侘び(wabi)」は、派手に足していくより静かに削っていく、豪華さより控えめ、という方向の美意識です。「寂び(sabi)」は、金属の錆びのように時間が表面に残していくもの——使い込まれて出てくる古艶や落ち着いた色を「いい」と感じる見方です。この二つが合わさって「侘び寂び」になります。 英語圏の辞書でも wabi-sabi は「簡素」「不完全」「自然」「控えめ」といった方向で説明されていて、いわば"ものの見方"として理解されています。スタンフォード大学が公開しているオンライン哲学事典(SEP)では、wabi を「簡素で峻厳な美(Simple, Austere Beauty)」、sabi を「素朴な古艶、時がつくる風合い(Rustic Patina)」と整理しています。 少し補足すると、「侘び」「寂び」には意味の層が三つあります。ひとつは単語としての意味(わびしい・さびしい、という気持ちや状態)。ひとつは美意識としての意味(控えめで簡素、古びた味わいを"いい"と感じる見方)。そしてもうひとつは、暮らしや表現の型(茶室の設え、器の選び方、花の生け方など、日常の中でその美意識が形として現れたもの)。SEPが語っているのは主に二つ目の、美意識としての層です。   日本発祥のもの? 海外ではどう見られてる? 「わび」は『万葉集』に登場しますし、平安期の『古今和歌集』、『枕草子』にも顔を出します。「さび」も「さびしさ」として和歌に現れていて、まずは"寂しさ"の語感で使われていた言葉です。つまり「侘び寂び」は、日本語の中で長い時間をかけて育まれてきた、日本発祥の美意識と言えます。 一方で "wabi-sabi" はそのまま英語でも通じる言葉になっていて、Cambridge や OED といった英語圏の辞書の見出し語にも載っています。海外では特にインテリアやデザインの世界で「完璧主義から少し降りる」「経年変化を隠さない」という意味合いで語られることが多いようです。 内閣府の外国人意識調査では、日本の魅力として「日本独自の精神性(禅・武士道・わびさび等)」が挙げられていることも確認できます。訪日外客数が増えている流れも重なって、日本文化への関心の母数自体が広がっているのは確かそうです。  ...

  • 作家の深堀りコラム | つくる時間が、暮らしを整える。Jurianne Matter(ユリアン・マター)

    作家の深堀りコラム | つくる時間が、暮らしを整える。Jurianne Matter(ユリアン...

    Jurianne Matter(ユリアン・マター)のプロダクトには「家に飾る」より前に「手を動かす」時間が用意されています。紙の花束やツリー そして願いをのせたボート。完成品が主役というより、つくる行為そのものが暮らしの輪郭を整えていくように感じます。   ユリアンさんの歩み ユリアンさんはアムステルダムでインテリアデザインを学び、IKEAでスタイリストとして経験を積んだのち、2008年に自身の名を冠したデザインスタジオ「Jurianne Matter」をスタートしました。ミニマルで詩的なホームアクセサリーは、世界30ヵ国以上のミュージアムショップやインテリアショップなどへ納入実績があり、現在も世界中を旅しているのだそうです。 自身のブランドにとどまらず、パターンデザインやパッケージデザイン、スタイリングなど、さまざまな文脈を行き来し企業とのコラボレーションも行われています。アムステルダムにあるオランダ最古の動物園・王立動物園ARTISのためにガーデンツールをデザインしたり、キッズブランドのバッグデザインや包装紙のデザインやスタイリングなど、その活躍は多岐に渡ります。   朝の散歩と 自然のカラーパレット 彼女の制作の背骨にあるのは自然です。朝の散歩を何年も習慣にし、朝日とともにハイキングシューズを履いて、家のすぐ裏にある自然保護区へ入る。毎日違う天気や気分や季節、そこで出会う動植物から刺激を受けながら、歩きながら頭の中で自然のカラーパレットを組み立てていくそうです。朝露をまとった蜘蛛の巣 霧の中から現れる夜と朝のはざまの色 列をなして飛ぶ鳥たち。自然の中の美しさは栄養のようなものだと語られています。   空間を奪わない 静けさの設計 その「栄養」は、彼女のプロダクトの佇まいに変換されます。線は強く主張しすぎず、色数や色味も抑えめで、空間に置いたときに景色を奪わない。だからこそ、住まいのどこに置いても不思議と馴染み、まるでずっと前からそこにあったように見える。和室にも合うと感じる人がいるのも、そうした静けさの設計に理由があるのかもしれません。当店にご提供いただいた作品からも、その静けさが伝わってきます。豆の莢のような植物、花の穂、鳥、蝶といったモチーフが、切り紙のような面とやさしい余白で構成され、色味は明るいのに騒がしくならない。眺めていると、風が通り抜ける気配だけが残るようで、部屋の空気をふっと軽くしてくれます。 当店とのコラボ作品   願いのボートが生まれた理由 もう一つ、ユリアンさんを語るうえで外せないのが「願いのボート」です。大切な人を失った出来事が重なった時期に、家族で想いをのせたボートを流した経験があり、その出来事の背景には、親友と彼女のお母さまを津波で亡くした痛みがあったそうです。命日を迎え、どうやって想いを手向けようかと家族で話していたとき、末っ子が「津波は水だから、ボートに乗ろうか」と口にした。そこで彼女は、ボートの手すりに沿うように短いメッセージを書き、彼女たちへの想いをそっとのせて川へ流しました。誰かに見せるためではなく、気持ちを運ぶための小さな儀式だったのだと思います。そこから「これを世の中に共有する必要がある」と感じたという話が残っています。ここで大事なのは、ボートが“商品アイデア”として生まれたのではなく、言葉にならない気持ちを運ぶ方法として生まれている点です。飾るためのモノというより、節目や記憶にそっと触れる小さな行為として、暮らしの中へ入ってくる。彼女のプロダクトに、どこか静かな祈りの気配が宿る理由はそこにあります。   彼女にとっての「美しい」 彼女が語る「美しい」は見た目だけで終わりません。環境に配慮した素材かどうか、丁寧につくられているか、誰でも不安なく楽しんで形にできるか。つくる時間 飾る空間 未来への影響まで含めて「美しい」と納得できたものだけを世に出しているという姿勢が語られています。 ユリアンさんが読んだ本に「読みたい本は自分で書かなければなりません。」という言葉があったそうです。わたしがこの言葉を聞いたとき、ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、わたし自身のこころが震えました。 「美しいものへの愛、美しいものを作ること、そしてそれは必ずしも実用的である必要はない」という彼女の言葉とともに、今の仕事に大きな影響をもたらしています。  ...

    作家の深堀りコラム | つくる時間が、暮らしを整える。Jurianne Matter(ユリアン...

    Jurianne Matter(ユリアン・マター)のプロダクトには「家に飾る」より前に「手を動かす」時間が用意されています。紙の花束やツリー そして願いをのせたボート。完成品が主役というより、つくる行為そのものが暮らしの輪郭を整えていくように感じます。   ユリアンさんの歩み ユリアンさんはアムステルダムでインテリアデザインを学び、IKEAでスタイリストとして経験を積んだのち、2008年に自身の名を冠したデザインスタジオ「Jurianne Matter」をスタートしました。ミニマルで詩的なホームアクセサリーは、世界30ヵ国以上のミュージアムショップやインテリアショップなどへ納入実績があり、現在も世界中を旅しているのだそうです。 自身のブランドにとどまらず、パターンデザインやパッケージデザイン、スタイリングなど、さまざまな文脈を行き来し企業とのコラボレーションも行われています。アムステルダムにあるオランダ最古の動物園・王立動物園ARTISのためにガーデンツールをデザインしたり、キッズブランドのバッグデザインや包装紙のデザインやスタイリングなど、その活躍は多岐に渡ります。   朝の散歩と 自然のカラーパレット 彼女の制作の背骨にあるのは自然です。朝の散歩を何年も習慣にし、朝日とともにハイキングシューズを履いて、家のすぐ裏にある自然保護区へ入る。毎日違う天気や気分や季節、そこで出会う動植物から刺激を受けながら、歩きながら頭の中で自然のカラーパレットを組み立てていくそうです。朝露をまとった蜘蛛の巣 霧の中から現れる夜と朝のはざまの色 列をなして飛ぶ鳥たち。自然の中の美しさは栄養のようなものだと語られています。   空間を奪わない 静けさの設計 その「栄養」は、彼女のプロダクトの佇まいに変換されます。線は強く主張しすぎず、色数や色味も抑えめで、空間に置いたときに景色を奪わない。だからこそ、住まいのどこに置いても不思議と馴染み、まるでずっと前からそこにあったように見える。和室にも合うと感じる人がいるのも、そうした静けさの設計に理由があるのかもしれません。当店にご提供いただいた作品からも、その静けさが伝わってきます。豆の莢のような植物、花の穂、鳥、蝶といったモチーフが、切り紙のような面とやさしい余白で構成され、色味は明るいのに騒がしくならない。眺めていると、風が通り抜ける気配だけが残るようで、部屋の空気をふっと軽くしてくれます。 当店とのコラボ作品   願いのボートが生まれた理由 もう一つ、ユリアンさんを語るうえで外せないのが「願いのボート」です。大切な人を失った出来事が重なった時期に、家族で想いをのせたボートを流した経験があり、その出来事の背景には、親友と彼女のお母さまを津波で亡くした痛みがあったそうです。命日を迎え、どうやって想いを手向けようかと家族で話していたとき、末っ子が「津波は水だから、ボートに乗ろうか」と口にした。そこで彼女は、ボートの手すりに沿うように短いメッセージを書き、彼女たちへの想いをそっとのせて川へ流しました。誰かに見せるためではなく、気持ちを運ぶための小さな儀式だったのだと思います。そこから「これを世の中に共有する必要がある」と感じたという話が残っています。ここで大事なのは、ボートが“商品アイデア”として生まれたのではなく、言葉にならない気持ちを運ぶ方法として生まれている点です。飾るためのモノというより、節目や記憶にそっと触れる小さな行為として、暮らしの中へ入ってくる。彼女のプロダクトに、どこか静かな祈りの気配が宿る理由はそこにあります。   彼女にとっての「美しい」 彼女が語る「美しい」は見た目だけで終わりません。環境に配慮した素材かどうか、丁寧につくられているか、誰でも不安なく楽しんで形にできるか。つくる時間 飾る空間 未来への影響まで含めて「美しい」と納得できたものだけを世に出しているという姿勢が語られています。 ユリアンさんが読んだ本に「読みたい本は自分で書かなければなりません。」という言葉があったそうです。わたしがこの言葉を聞いたとき、ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、わたし自身のこころが震えました。 「美しいものへの愛、美しいものを作ること、そしてそれは必ずしも実用的である必要はない」という彼女の言葉とともに、今の仕事に大きな影響をもたらしています。  ...

  • 抽象風景画の定義とその魅力

    抽象風景画の定義とその魅力

    画像は谷口正直さんの作品   風景を描くといっても、そこにある山や海をそのまま写すとは限りません。光や空気の気配、心に浮かぶ情景――そうした「感じる風景」をあらわした作品があります。形をおさえ、色やリズムで空間を感じさせるその表現は「抽象風景画」と呼ばれ、目に見えないものを描こうとするこの絵画の世界には、静けさの中に見る人の思考を深めるような奥行きが感じられます。   1. 抽象風景画とは何か 「抽象風景画」という言葉には、明確な定義がありません。風景をもとに形や色を簡略化した作品もあれば、特定の場所を描いていないのに「空」や「地平」の気配を感じさせる抽象作品もあります。つまり、風景画を抽象的に描いたものと、抽象画に風景を感じ取れるものの両方を含む広い領域です。 例えば、印象派のクロード・モネ※が晩年に描いた《睡蓮》は、もはや池や樹木の形が判別できないほどに抽象化されています。それでも作品からは光や空気、時間の流れが伝わり、私たちはそこに“風景”を感じます。一方でマーク・ロスコ※の色面抽象は、作者本人が「感情を描いている」と語っていますが、観る人によっては空や地平のような奥行きを感じることがあります。 このように抽象風景画は、出発点がどちらであっても、見る人の感覚の中に風景が立ち上がる表現と言えるでしょう。   貴真さんの作品   2. 風景画と抽象画のあいだ 風景画は本来、目に見える自然や街並みを描くものです。しかし19世紀後半、印象派の登場とともに、画家たちは「見たまま」よりも「感じたまま」を描く方向へと進みます。写真の普及もあり、絵画は再現よりも感覚や印象の表現に価値を見出すようになりました。 その延長にあるのが、20世紀以降の抽象表現です。ウィリアム・ターナー※の後期作品は光と色を重ねることで風景を構成し、モネは水面と空の境界を溶かしながら自然の気配を描きました。そして20世紀半ばには、ロスコやアグネス・マーティンのように、形や色のリズムで風景を感じさせる作家も現れます。抽象風景画とは、こうした流れのなかで生まれた「風景と抽象のあいだ」に立つ表現なのです。   3. 抽象と具象の“割合” 抽象風景画には明確な線引きがありませんが、感覚的には次のように整理できます。 ・具象寄り>山や海など対象がわかる     ・中間>空気・光・地平の気配がある ・抽象寄り>色や構成だけで感情を表す この“中間”にある作品こそが、抽象風景画と呼ばれることが多く、何が描かれているかよりも、どんな空間を感じるかが鑑賞のポイントになります。   大川菜々子さんの作品(具象寄り)   ハシモトヒロコさんの作品(こちらも具象寄り)...

    抽象風景画の定義とその魅力

    画像は谷口正直さんの作品   風景を描くといっても、そこにある山や海をそのまま写すとは限りません。光や空気の気配、心に浮かぶ情景――そうした「感じる風景」をあらわした作品があります。形をおさえ、色やリズムで空間を感じさせるその表現は「抽象風景画」と呼ばれ、目に見えないものを描こうとするこの絵画の世界には、静けさの中に見る人の思考を深めるような奥行きが感じられます。   1. 抽象風景画とは何か 「抽象風景画」という言葉には、明確な定義がありません。風景をもとに形や色を簡略化した作品もあれば、特定の場所を描いていないのに「空」や「地平」の気配を感じさせる抽象作品もあります。つまり、風景画を抽象的に描いたものと、抽象画に風景を感じ取れるものの両方を含む広い領域です。 例えば、印象派のクロード・モネ※が晩年に描いた《睡蓮》は、もはや池や樹木の形が判別できないほどに抽象化されています。それでも作品からは光や空気、時間の流れが伝わり、私たちはそこに“風景”を感じます。一方でマーク・ロスコ※の色面抽象は、作者本人が「感情を描いている」と語っていますが、観る人によっては空や地平のような奥行きを感じることがあります。 このように抽象風景画は、出発点がどちらであっても、見る人の感覚の中に風景が立ち上がる表現と言えるでしょう。   貴真さんの作品   2. 風景画と抽象画のあいだ 風景画は本来、目に見える自然や街並みを描くものです。しかし19世紀後半、印象派の登場とともに、画家たちは「見たまま」よりも「感じたまま」を描く方向へと進みます。写真の普及もあり、絵画は再現よりも感覚や印象の表現に価値を見出すようになりました。 その延長にあるのが、20世紀以降の抽象表現です。ウィリアム・ターナー※の後期作品は光と色を重ねることで風景を構成し、モネは水面と空の境界を溶かしながら自然の気配を描きました。そして20世紀半ばには、ロスコやアグネス・マーティンのように、形や色のリズムで風景を感じさせる作家も現れます。抽象風景画とは、こうした流れのなかで生まれた「風景と抽象のあいだ」に立つ表現なのです。   3. 抽象と具象の“割合” 抽象風景画には明確な線引きがありませんが、感覚的には次のように整理できます。 ・具象寄り>山や海など対象がわかる     ・中間>空気・光・地平の気配がある ・抽象寄り>色や構成だけで感情を表す この“中間”にある作品こそが、抽象風景画と呼ばれることが多く、何が描かれているかよりも、どんな空間を感じるかが鑑賞のポイントになります。   大川菜々子さんの作品(具象寄り)   ハシモトヒロコさんの作品(こちらも具象寄り)...

  • ハシモトヒロコさんが描いた、抽象風景画の新作をご紹介します。

    ハシモトヒロコさんが描いた、抽象風景画の新作をご紹介します。

    ハシモトヒロコさんの3作品は、余白と静けさを味方にした風景のシリーズです。雪原の足あと、海辺にほどける光、遠景の稜線。場面ごとにモチーフは異なりますが、どれも描き込みすぎず、必要な要素だけをそっと配置することで、見る人の記憶や感情が入り込む余地を残しています。並べて飾ると、季節と時間がゆるやかにつながり、部屋の空気まで澄んでいくように感じられます。   「光を受けて」 ゆるやかな稜線が重なり、広い水面が空を受け止めます。点のきらめきが、時間の流れをやさしく可視化しているようです。 「あの木のところまで  」 まっさらな斜面に、足あとの列が静かに続きます。たったそれだけの要素なのに、歩いた時間や体温まで想像させるのがハシモトヒロコさんの魅力です。 「やさしさの余韻 」 水平線に開いた空と、水面にほどける光。岸のかたちを最小限に置くことで、波音まで聞こえてきそうな静けさが立ち上がります ハシモトヒロコ / Hiroko Hashimoto愛媛県出身、香川県在住の水彩画家。奈良芸術短期大学美術学科洋画コース卒業後、WEBデザイナーとしての経験を経て、2020年よりアーティスト活動を開始。水彩特有の滲みや透明感、色と色が干渉しあうことで偶発的に生まれる色の輪郭に魅了され、現在は地元を拠点に、個展を開きながら作品を発表している。 ハシモトさんの作品はこちら

    ハシモトヒロコさんが描いた、抽象風景画の新作をご紹介します。

    ハシモトヒロコさんの3作品は、余白と静けさを味方にした風景のシリーズです。雪原の足あと、海辺にほどける光、遠景の稜線。場面ごとにモチーフは異なりますが、どれも描き込みすぎず、必要な要素だけをそっと配置することで、見る人の記憶や感情が入り込む余地を残しています。並べて飾ると、季節と時間がゆるやかにつながり、部屋の空気まで澄んでいくように感じられます。   「光を受けて」 ゆるやかな稜線が重なり、広い水面が空を受け止めます。点のきらめきが、時間の流れをやさしく可視化しているようです。 「あの木のところまで  」 まっさらな斜面に、足あとの列が静かに続きます。たったそれだけの要素なのに、歩いた時間や体温まで想像させるのがハシモトヒロコさんの魅力です。 「やさしさの余韻 」 水平線に開いた空と、水面にほどける光。岸のかたちを最小限に置くことで、波音まで聞こえてきそうな静けさが立ち上がります ハシモトヒロコ / Hiroko Hashimoto愛媛県出身、香川県在住の水彩画家。奈良芸術短期大学美術学科洋画コース卒業後、WEBデザイナーとしての経験を経て、2020年よりアーティスト活動を開始。水彩特有の滲みや透明感、色と色が干渉しあうことで偶発的に生まれる色の輪郭に魅了され、現在は地元を拠点に、個展を開きながら作品を発表している。 ハシモトさんの作品はこちら

  • 作家の深堀りコラム | 間合いを纏う作家。貴真

    作家の深堀りコラム | 間合いを纏う作家。貴真

    はじまりは、明確な理由のないところから 貴真さんが絵を描き始めたのは、20代の終わり頃のことだそうです。強い動機や将来像があったわけではなく、「何かを作りたい」という感覚に導かれるように、油絵を描き始めたのがきっかけでした。続けようと意識することもなく、あれこれと思いつくままに試していく。その延長線上に、今も制作があると語ります。 その後、デザインの仕事にも携わりますが、一方で、「クライアントのいない創作」を自由に行いたいという思いが、次第に大きくなっていきました。明確な転機があったというより、日々の積み重ねの中で、制作が自然と生活の一部として定着していったように思えます。   語らない画面がつくる、色と色の間合い 貴真さんの作品を前にすると、まず感じるのは、風景を描いているようでいて、どこにも具体的な場所が示されていないことです。水平に重ねられた色の層は、空や海、地平線を連想させますが、それを言葉で確定させることを拒んでいるようにも見えます。 淡い色調の作品では、光がにじむように広がり、赤や青を用いた画面でも、感情を強く押し出す印象はありません。色と色の境界は曖昧で、そのあいだに、見る側の感覚が入り込むための間合いが静かに保たれています。そのため鑑賞者は、作品から何かを「読み取ろう」とするよりも、自然と自分自身の記憶や気分を重ねながら画面と向き合うことになります。   作品が完結しないことの意味 貴真さん自身は、自身の作品に「寡黙」という言葉を当てています。それは、作品が多くを語らないという意味であり、同時に、語り切らないことを大切にしているという姿勢でもあります。 作品そのものが明確なメッセージを提示するのではなく、鑑賞者が作品と対峙したときに、その人の内側で何かが動く。その小さな変化の引き金となることが、理想の在り方だと考えています。強烈な刺激ではなく、ささやかで過剰でないこと。作品が完結せず、見る人の感覚によって開かれていく余地を残すことが、貴真さんの制作の根底にあります。   画面強度という基準 制作において、貴真さんが特に重視しているのが、「画面強度」と呼んでいる感覚です。それは色の濃さやコントラスト、塗りの厚さといった物理的な強さではありません。鑑賞者の視線や時間に耐えうるかどうか、見続けることで世界が深まっていくかどうか。そのような、感覚的で直感的な基準です。 世の中には、一見して目を引いても、しばらく見ていると薄さが露わになる画面も少なくありません。一方で、時間をかけて眺めるほど、奥行きが増していく作品もある。貴真さんは、制作中、画面と対話するように手を動かし、その強度が十分に感じられるまで、制作を続けます。その姿勢は、美術館で作品を鑑賞する感覚とよく似ていますが、唯一の違いは、自ら手を加えられる点にあります。   日常の中に置かれることを想像して 完成した作品は、誰かの日常の中に飾られることを前提にしています。そのため、技術を誇示するためだけの表現や、感情を過剰にぶつけるような画面、大きすぎて空間を圧迫する作品には向かいません。自分自身が日常の中に置きたいと思えないものは、制作したくない。その基準は一貫しています。 制作は自宅の一室で行われます。準備の時間には音楽を流し、道具を整える。そして筆を取る直前に音を消し、無音の状態に入ることで、感性のスイッチが入る。制作中は、余計な音のない環境が最も集中できると感じているそうです。   言葉から離れ、感性に委ねる 着想は、意識的に探しているときよりも、ふと力が抜けた瞬間に訪れます。本を読んでいるときの連想や、早朝や夕方、太陽が低くなった時間帯の色彩。作品に見られる柔らかなグラデーションや水平の広がりは、そうした時間の感覚が静かに反映されているようにも見えます。 最近は、「言葉からの離脱」を強く意識した制作に向かっているといいます。意味を組み立てるのではなく、感性と身体だけを働かせて画面に向かうこと。その難しさを自覚しているからこそ、少しでも違和感があれば無理に進めず、手を止める選択をします。今後は、対幅や三幅対といった、複数の作品が影響し合う形式にも、改めて取り組んでみたいと考えているようです。   作品と向き合うということ 作品を前にしたとき、作家の意図を読み解こうとする必要はありません。むしろ、自分自身の感覚が何を感じているのかに目を向けてほしいと、貴真さんは語ります。飾ることも義務のように捉えず、季節や気分に合わせて掛け替えながら、空間の変化を愉しむ。その中に、貴真さんの作品が一枚あったなら嬉しい、と。 語りすぎない画面と、静かに保たれた間合い。貴真さんの作品は、暮らしの中でふと立ち止まり、呼吸を整えるための存在として、そっとそこに在り続けます。   このコラムの執筆にあたり、貴真さんよりご提供いただいた写真をご紹介します。これらの写真は、絵画作品とあわせて見ることで、制作時の視点や関心を想像する手がかりになるかもしれません。  ...

    作家の深堀りコラム | 間合いを纏う作家。貴真

    はじまりは、明確な理由のないところから 貴真さんが絵を描き始めたのは、20代の終わり頃のことだそうです。強い動機や将来像があったわけではなく、「何かを作りたい」という感覚に導かれるように、油絵を描き始めたのがきっかけでした。続けようと意識することもなく、あれこれと思いつくままに試していく。その延長線上に、今も制作があると語ります。 その後、デザインの仕事にも携わりますが、一方で、「クライアントのいない創作」を自由に行いたいという思いが、次第に大きくなっていきました。明確な転機があったというより、日々の積み重ねの中で、制作が自然と生活の一部として定着していったように思えます。   語らない画面がつくる、色と色の間合い 貴真さんの作品を前にすると、まず感じるのは、風景を描いているようでいて、どこにも具体的な場所が示されていないことです。水平に重ねられた色の層は、空や海、地平線を連想させますが、それを言葉で確定させることを拒んでいるようにも見えます。 淡い色調の作品では、光がにじむように広がり、赤や青を用いた画面でも、感情を強く押し出す印象はありません。色と色の境界は曖昧で、そのあいだに、見る側の感覚が入り込むための間合いが静かに保たれています。そのため鑑賞者は、作品から何かを「読み取ろう」とするよりも、自然と自分自身の記憶や気分を重ねながら画面と向き合うことになります。   作品が完結しないことの意味 貴真さん自身は、自身の作品に「寡黙」という言葉を当てています。それは、作品が多くを語らないという意味であり、同時に、語り切らないことを大切にしているという姿勢でもあります。 作品そのものが明確なメッセージを提示するのではなく、鑑賞者が作品と対峙したときに、その人の内側で何かが動く。その小さな変化の引き金となることが、理想の在り方だと考えています。強烈な刺激ではなく、ささやかで過剰でないこと。作品が完結せず、見る人の感覚によって開かれていく余地を残すことが、貴真さんの制作の根底にあります。   画面強度という基準 制作において、貴真さんが特に重視しているのが、「画面強度」と呼んでいる感覚です。それは色の濃さやコントラスト、塗りの厚さといった物理的な強さではありません。鑑賞者の視線や時間に耐えうるかどうか、見続けることで世界が深まっていくかどうか。そのような、感覚的で直感的な基準です。 世の中には、一見して目を引いても、しばらく見ていると薄さが露わになる画面も少なくありません。一方で、時間をかけて眺めるほど、奥行きが増していく作品もある。貴真さんは、制作中、画面と対話するように手を動かし、その強度が十分に感じられるまで、制作を続けます。その姿勢は、美術館で作品を鑑賞する感覚とよく似ていますが、唯一の違いは、自ら手を加えられる点にあります。   日常の中に置かれることを想像して 完成した作品は、誰かの日常の中に飾られることを前提にしています。そのため、技術を誇示するためだけの表現や、感情を過剰にぶつけるような画面、大きすぎて空間を圧迫する作品には向かいません。自分自身が日常の中に置きたいと思えないものは、制作したくない。その基準は一貫しています。 制作は自宅の一室で行われます。準備の時間には音楽を流し、道具を整える。そして筆を取る直前に音を消し、無音の状態に入ることで、感性のスイッチが入る。制作中は、余計な音のない環境が最も集中できると感じているそうです。   言葉から離れ、感性に委ねる 着想は、意識的に探しているときよりも、ふと力が抜けた瞬間に訪れます。本を読んでいるときの連想や、早朝や夕方、太陽が低くなった時間帯の色彩。作品に見られる柔らかなグラデーションや水平の広がりは、そうした時間の感覚が静かに反映されているようにも見えます。 最近は、「言葉からの離脱」を強く意識した制作に向かっているといいます。意味を組み立てるのではなく、感性と身体だけを働かせて画面に向かうこと。その難しさを自覚しているからこそ、少しでも違和感があれば無理に進めず、手を止める選択をします。今後は、対幅や三幅対といった、複数の作品が影響し合う形式にも、改めて取り組んでみたいと考えているようです。   作品と向き合うということ 作品を前にしたとき、作家の意図を読み解こうとする必要はありません。むしろ、自分自身の感覚が何を感じているのかに目を向けてほしいと、貴真さんは語ります。飾ることも義務のように捉えず、季節や気分に合わせて掛け替えながら、空間の変化を愉しむ。その中に、貴真さんの作品が一枚あったなら嬉しい、と。 語りすぎない画面と、静かに保たれた間合い。貴真さんの作品は、暮らしの中でふと立ち止まり、呼吸を整えるための存在として、そっとそこに在り続けます。   このコラムの執筆にあたり、貴真さんよりご提供いただいた写真をご紹介します。これらの写真は、絵画作品とあわせて見ることで、制作時の視点や関心を想像する手がかりになるかもしれません。  ...

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